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木曽川の最終渓谷で、上流部では山林に囲まれ、チャート(角岩)の懸崖や奇岩・巨岩を望むことができる。
良質な水質と豊富な水量により、犬山市や尾張地域の上水源として利用されている。
「日本ライン下り」 一年中:川の景色を楽しみながら、木曽川(約13km:美濃太田から犬山橋下まで)を下る。
「木曽川鵜飼」 6月〜9月:鵜飼は8〜10羽の鵜に魚を捕らせる古典的な漁法で、鵜船のたくかがり火と共に川を下り、鵜匠の巧みな綱さばきと鵜の妙技を間近で見ることができる。
「昼うかい」5月〜10月:鵜が水に潜って魚を捕る瞬間が間近に見られる、日本で唯一の昼うかいを行っている。
「日本ライン夏まつり納涼花火大会」 毎年8月10日:犬山橋の下流で開かれる。約3,000発の華やかな花火の競演に約15万人の見物客が花火に酔いしれる。
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水質は「生活環境の保全に関する環境基準」で「AA」を保っており、水量は約1,500万トン/日。
木曽川が現在の流路になったのは、天正14年(西暦1586年)木曽川史上最大の洪水と言われる「天正の洪水」以降のことで、それ以前はいくつもの支流に分かれ濃尾平野を流れていました。この「天正の洪水」により集中して流れた流路が「木曽川」と言われており、天正18年(西暦1590年)には、豊臣秀吉が木曽川左岸(犬山から長島まで)の築堤をしました。この堤防は度々決壊していましたが、その後の慶長12年(西暦1607年)、徳川義直(家康の第9子)が尾張藩主になると、翌年に徳川家康は、伊奈備前守忠次に木曽川左岸の築堤を命じます。この築堤は、犬山から伊勢湾まで50kmの工事をわずか2年で完成させ「お囲み堤」ともいわれ、尾張を洪水から守るとともに、西国の大名に対する一大防御線を築きました。また尾張藩では美濃側に対して、この堤防より3尺低くするよう圧力をかけたといわれています。
年2回の水質調査と、地元小学校が木曽川の調査等を実施している。
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